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ハウス オブ ピース

2005年07月23日 12:23


長崎広島での『懺悔の祈りと断食』を予定しているジョン シュシャードさん達の主催するハウス オブ ピースのことが、ボストンの新聞に載った記事の意訳です。

"Peace is the Word" North Shore Sunday 紙 2004年12月12日掲載
Frank Carini記者
意訳 山崎千恵子
 
古い漁港の街にて、世界中の紛争地域の難民に憩いの場を与え続け14年、ハウス
オブ=ピースの活動ますます勢いづく。

両親を目の前で失い、人々が銃殺されるのを目撃し、命からがら逃げてきた子供たち
や家族がたどり着くのは、ここイプスウィッチにあるHouse of Peace ハウス=オブ
=ピース。ほとんどのものが言葉さえ失い、平和を渇望してここへやってくる。ハウ
ス=オブ=ピースは丘の上にある大きな白い家で、20の部屋をもち、1990年よ
り世界中の紛争や戦争で全てを失った難民を受け入れてきた。創立者のケリー、ジョ
ン=シューシャード夫妻は、これまでにスーダン、エチオピア、アフガニスタン、コ
ソボ、ザンビア、などなど40の地域国を数える。

ジョンの話では、「ほとんどのものがここにやってくる前に、人が考えられないほど
のトラウマを背負ってくる。両親が目の前で暗殺された子もいれば、銃撃戦を経験し
てきた者もいる。全てを失い、あらゆる苦しみを経て、ここにやってくるもを受け入
れてきました」という戦争孤児や家族たちが、ここに平和を求めてやってきます。あ
るものは、木から葉が落ちて冬になることを見たこともなかったり、ほとんどのもの
が、蛇口をひねれば水が出ることや、スイッチをつければ電気がつくことなど、体験
もしたこともなく、電気をつけると顔を背ける子もいるとか。

ここ4エーカー(4600坪)のハウス=オブ=ピースで文字どおり暖かいもてなし
を受け、安全を確保されて、衣食住をあたえられ、数週間から数カ月の間の、驚くほ
どわずかな期間で、みな自活できるようになり、これからアメリカで何とか暮らして
いけるよう、方向付けのお世話をしています。

ある時は、ソマリアの難民家族が2、4、6、9、12歳のこどもを引きつれ14年
間ケニア国境内の難民キャンプで死線をさまよいながら、ここたどり着いた。そのす
ぐ後には、ボストンのストリートを50時間不眠でさまよっていたボスニアからの5
人家族がここで保護された。その歳のハウス=オブ=ピースでの感謝祭の夕食は50
人に膨らんだという。ふた家族の父親は庭で落ち葉集めをし、母親たちは食事の用
意、後片付けを手伝い、ボスニア、ソマリアの大きい子供らは小さい子らの面倒をみ
ていた。やがて、彼等はそれぞれに地元の、ソマリア=コミュニティーによってア
パート見つけてもらって巣立っていった。

元々この地を夫妻が選んだのも、近くに海岸があるためである。二人はこの海の癒し
の力を利用して、難民を保護するのに必要な憩いの場として選んだ。またボストン郊
外のこの地を選んだもう一つの理由として、ボストンには様々な難民がたどり着き、
難民コミュニティーが多々あるためで、二人はここで、戦争孤児の癒しのコミュニ
ティーを打ち立てたいと願って、ここイプスウィッチに、築277年の古い家を購入
してやってきた。

最初の7年間は主に、両親を戦争で殺された10代の、べトナム、ハイチ、エルサル
バドル、キューバ、アルバニアの若者が多かった。二人の再婚当初、これらの青少年
11人と暮らしたという。彼等は、国連や米国国務省の難民弁務救済プログラムより
 ハウス=オブ=ピースへ送られてきた。多くのここで地元の高校へ通わせてもらっ
て卒業していった。
ある二人のベトナムの若者は、さらにここから博士号を取得するにいたる。

またある年少は、地元のケープアン=ウワルドーフ、シュタイナー学校に通ってい
た。また多くのものがカソリックの奉仕団体に支えられてきた。常時8人近くの難民
家族がハウス=オブ=ピースに身を寄せる。中にはコソボから、3世代家族がここに
お世話になっていた時もあった。多くはいきなりやってくることが多い。2日前に知
らせがあるなんていうのは、まだましだそうだ。ましてや、その多くのものが24時
間体勢の医療サポートを必要としている。地元の病院へ行くのは日常で、肺炎、脱水
症なんてのはよくあることだそうだ。
「よく人々は、私たちがどうやってここをまかなっていくのか聞いてくるが、私たち
がここをまかなっているのではない、地元や国中の人、あるいは諸外国からも善意の
寄付がよせられ、なんとかやっている。アップルトン農園から新鮮な野菜の寄付が、
そして近くの魚市場から新鮮な魚介類が、そしてケープアン=ウオールドフ学校から
連日のように衣類がおくられ、多くの教会が資金集めをしてくれます」とジョンは、
夫人のケリーを伴って話してくれた。またケリーの夫人の言葉をかりれば、「イプス
ウィッチという街全体で私たちの仕事や人々をサポートしてくれて、本当に助かって
います。苦難の旅の末、ハウス=オブ=ピース二やってきた人々が癒えていく過程
に、こうした人々の善意があるからでしょう」
そして、シューシャード夫妻を含め、ここの理事会のメンバーたちは皆無給で奉仕し
ている。そして、そうした活動にドイツ、イタリア、日本、マレーシアの若者がボラ
ンテイアにやってくる。

二人の出会い
彼等は1980年、ジョンが7人の仲間とともに起こしたプラウシュアー行動の最初
の地、ペンシルバニア州でであった。ジェネラル=エレクトリック社にハンマーを
持って侵入し、二つの核弾頭容器に血をたらし、平和の祈りを捧げ、逮捕された。
10種以上もの重罪の刑で投獄された。

一方、ケリーは同じペンシルバニア州で発達障害児童と成人のキャンプヒル=コミュ
ニティーにて15年暮らしていた。
お二人とも、平和への希求を分かち合ってきた。二人は口をそろえていう、「暴力の
行使は非人間的だ」と。

ジョンは「戦争という暴力は、我々の人間性を否定し、破壊します」という。彼は、
1965年米国海兵隊がベトナムのダナンに侵攻した時、合法的な自衛権の行使に反
するとして、上司命令を退け除隊した経験持ち、イリノイ州出身でバーモントで弁護
士をやっていた。前妻とのあいだに3人の子供、14人の孫があり、カナダ、モント
リオール生まれボストン郊外で育ったケリーも2児の母親で、孫が一人いた。再婚同
士で長い間の友情の末、結ばれハウス=オブ=ピースを二人ではじめることになる。
二人のユニークで山谷に満ちた背景を駆使しても、このハウス=オブ=ピースをはじ
めることは、決して容易いことではなかったろう。

ケリー夫人いわく「彼等の話す戦争の悲惨さは、それはそれはこちらの想像を超えた
もので、戦争の惨さを知っていたつもりだったけど、その傷跡や戦争からくる心の痛
みや、その破壊力の恐ろしさには、私たちが知る由もありませんでした。一番辛いの
は、特にそれらの話をお世話をしている人から聞くのは忍びがたいです。彼等は激情
を抱えてやってきますから」と語る彼女の姿がそこにあった。


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